母は生前、とてもお洒落な人だった。フランスに旅行した際に買ってきたという、繊細なリバーレースのベールが付いた帽子を、大切にクローゼットにしまっていた。「いつか、私を見送るときに使いなさい」と冗談めかして言っていた母が、本当に逝ってしまった。葬儀の朝、私は迷わずその帽子を手に取った。鏡に映る自分の姿は、どこか母に似ていた。ベールを下ろすと、視界がふんわりと黒い霧に包まれた。それは母が私を守ってくれているような、不思議な安心感だった。会場に着くと、親戚たちが驚いたような、でも感心したような顔で私を見た。「お母さんそっくりね」という言葉が、何よりの慰めになった。式の最中、僧侶の読経を聞きながら、私はベール越しに揺れる焼香の煙を見つめていた。煙がレースの網目を通り抜け、私の顔をかすめていく。そのたびに、母との楽しかった会話や、喧嘩をした後の仲直りのシーンが、走馬灯のように浮かんでは消えた。ベールの良いところは、自分の世界に没入できることだ。隣に座っている親族の顔さえ、意識しなければ気にならない。私は母と二人きりで、最後の対話を楽しんでいた。出棺の際、霊柩車に棺が納められるのを見届けるとき、私は一瞬だけベールを上げた。母が見ていたであろう空を、自分の目で見せたかったからだ。そこには、母の好きだった澄み渡るような秋の空が広がっていた。葬儀が終わり、精進落としの席で帽子を脱いだとき、私は母から自立した一人の女性になったような、清々しい感覚を覚えた。母の形見のベールは、私にとって単なる装飾品ではなく、悲しみを乗り越えるための「通過儀礼の道具」だった。今、その帽子は再びクローゼットに戻っているが、そこには母の思い出だけでなく、私があの日流した涙と、立ち直ろうとした決意も一緒に仕舞われている。ベールを纏うという行為は、血縁の絆を肌で感じるための、最も直接的な手段なのかもしれない。記憶を書き綴っても、あの日のレースの感触は鮮明に残っている。形見の品を身に纏って大切な人を送ることは、命のバトンを受け取る儀式でもあるのだ。ベールは、母から私へ贈られた最後の、そして最高のギフトだった。