葬儀という、時が止まったかのような静謐な空間。その中で、唯一ゆらりゆらりと動き続けているものがあります。祭壇に灯された、ろうそくの炎です。私たちは、その小さな光の前に座り、故人を偲びます。しかし、その揺らめく炎は、単に場を照らすための灯りなのでしょうか。深く見つめていると、そこには命の根源的な姿が映し出されているように思えてなりません。ろうそくの炎は、自らの蝋を溶かし、その身を削りながら光を放っています。命あるものが、自らの時間とエネルギーを燃やして生きる姿そのものと、どこか重なります。激しく燃え盛ることもあれば、風に吹かれてか弱く揺れることもある。その予測不能な揺らめきは、喜びや悲しみ、出会いや別れといった、人の感情の揺らぎや、決して一直線ではない人生の軌跡を象徴しているかのようです。私たちは、その炎の中に、情熱を燃やして仕事に打ち込んだ故人の姿や、家族のために身を尽くした優しい面影を、無意識のうちに重ね合わせているのかもしれません。そして、やがて蝋が尽き、炎が静かにその光を閉じていく様は、誰にでも必ず訪れる死の必然性を、厳粛に、しかし静かに私たちに教えてくれます。あれほど熱く輝いていた光も、いつかは消えゆく運命にある。仏教で説かれる「諸行無常」、すなわち、この世のすべてのものは絶えず変化し、同じ状態に留まることはないという真理を、ろうそくは自らの姿をもって示しているのです。葬儀の場でろうそくの炎を見つめる時間は、単なる儀式の一部ではありません。それは、故人との思い出を辿る時間であると同時に、炎という原始的な光を通じて、自分自身の「生」と、いつか訪れる「死」について、深く思いを馳せるための、哲学的な時間でもあるのです。なぜ人は生まれ、どこへ還っていくのか。その答えのない問いに、揺れる炎は何も語ってはくれません。しかし、その静かな光は、故人が確かにこの世に存在し、命を燃やして生きたという紛れもない事実を、温かく、そして力強く証明してくれている。私たちは、その光に照らされることで、悲しみの中から再び立ち上がり、明日を生きていくための、小さな勇気をもらっているのではないでしょうか。
揺れる炎に映る命のかたち