私が初めて友人や親戚の付き添いなしに、一人で葬儀に参列したのは、大学時代の恩師が亡くなられた時でした。社会人になったばかりの私は、お世話になった先生のために、きちんとした大人の対応をしなければと、妙に気負っていたのを覚えています。訃報を聞いたのは通夜の前日。私は慌てて、会社帰りに近所のコンビニエンスストアに駆け込み、香典袋を手に取りました。黒白の水引が印刷された、ごく一般的なものです。「これで大丈夫だろう」。そう安易に考えたのが、私の最初の失敗でした。通夜当日、斎場の受付で香典を渡そうと列に並んでいると、周囲の年配の方々が持っている不祝儀袋が、私のものとは明らかに違うことに気づきました。彼らの袋は、上質な和紙で作られ、印刷ではなく本物の水引が立体的に結ばれています。私のペラリとした袋が、急にみすぼらしく、子供っぽく見えてきました。その時、私は香典袋に「格」があることを、初めて知ったのです。恩師への感謝の気持ちとして、少し多めの金額を包んでいた私は、その中身と袋の簡素さとのアンバランスに、顔から火が出るほど恥ずかしくなりました。ご遺族に、礼儀知らずな教え子だと思われたのではないか、と。さらに私の心を追い詰めたのが、水引の結び方の意味でした。後から知ったことですが、弔事の水引は「二度と繰り返さない」という意味を込めた「結び切り」でなければなりません。幸い、私が買った袋は結び切りでしたが、もし間違えて蝶結びのものを買っていたらと思うと、ぞっとします。この経験は、私にとって大きな教訓となりました。マナーとは、単なる形式ではなく、相手への敬意と心遣いを形にするための、先人たちの知恵の結晶なのだと。それ以来、私は自宅の書棚に、金額や場面に応じて使い分けられるよう、数種類の不祝儀袋と、慶弔両用の紫色の袱紗を常に用意するようになりました。いざという時に慌てないための、ささやかな備えです。あの日の苦い経験は、私を少しだけ大人にしてくれた、忘れられない授業だったのかもしれません。
水引選びで失敗した私の初めての葬儀