祖母の訃報が届いたのは、私が高熱を出して寝込んでいた日のことでした。インフルエンザでした。医者からは、外出を固く禁じられました。昔から私を誰よりも可愛がってくれた祖母の葬儀に、どうしても参列できない。その事実が、病気の苦しさ以上に、私の心を締め付けました。何もできない自分を責め、ベッドの上でただ泣いていると、母から電話がありました。「もしよかったら、Zoomで繋ぐから、おばあちゃんのこと、見てあげてくれない?」。その提案は、絶望の中に差し込んだ一筋の光でした。告別式の当日、私は布団の中から、スマートフォンの小さな画面を見つめていました。そこには、見慣れた斎場の祭壇と、穏やかに微笑む祖母の遺影が映っていました。音声からは、僧侶の読経と、親戚たちの微かな嗚咽が聞こえてきます。私はその場にいない。けれど、確かに、その場の空気を感じていました。お焼香の時間が来た時、私は画面に向かって、ベッドの上で上半身を起こし、静かに手を合わせました。祖母の好きだった花で飾られた祭壇。出棺の際に、祖父が棺を撫でながら「またな」と呟く姿。それらを画面越しに見ていると、涙が止まりませんでした。現地にいられないもどかしさや無力感は、確かにありました。祖母の体に触れることも、親戚たちと直接言葉を交わすこともできない。しかし、それ以上に、「お別れの場に立ち会えている」という事実が、私の心を少しずつ救ってくれました。もしこのZoom配信がなければ、私はただ一人、想像の中で祖母の葬儀を思い描き、後悔の念に苛まれ続けていたでしょう。葬儀の後、私は母に教わったオンラインの香典サービスを利用して、お悔やみのメッセージと共に香典を送りました。便利な世の中になったものだな、と少しだけ不謹慎に思いながらも、弔意を形にできたことに安堵しました。テクノロジーが、人の心の悲しみを完全に癒やすことはできないかもしれません。しかし、どうしようもない状況の中で、人と人との繋がりを保ち、心を寄り添わせる手助けをしてくれる。Zoom越しに祖母を見送ったあの日、私はそのことを、身をもって学んだのです。
Zoom越しに祖母を見送った日のこと